「おひとりさま」に過剰反応する私
「いらっしゃいませ、
おひとりさまでしょうか。」
お店に入った瞬間に笑顔で告げられる言葉です。
「おひとりさま」には「独身」の意味が含まれることがあります。
結婚して、家族がおられ方々は、お店に入った瞬間に問いかけられる、
「おひとりさまでしょうか」に特別な意味を感じることはないと思います。
私は20代半ばから「おひとりさま」をやっております。
自分だけが不遇で、自分だけが不幸せで、
他人の喜びを素直に受け止められなかったことが原因で、
学生時代からのパートナーには愛想を尽かされました。
それ以来、職場での出会い、そして職場以外での出会いにも恵まれず、
40代になった今でも「おひとりさま」を継続しております。
(詳しくはこちらに書かせて頂いております。「独身40代私の『孤独』との向き合い方~「ないものねだり」をやめてみる。」)
30代の私は一人寂しく入店してきた「おひとりさま」とは思われたくなく、ひきこもりに。
とくに苦しかったのは30代です。
なぜ自分ばかりが仕事にも、私生活にも恵まれず、
孤独で虚しい日々を過ごしているのかと毎朝、毎夜思い悩んでおりました。
20代までは「おひとりさま」の友人たちと会う機会もありましたが、
30代になると「おひとりさま」だった友人たちは結婚し、家族ができ、時間の使い道の優先順位は「家族」と「家族」をもっている友人たちの方へに移っていきました。
30代になっても「おひとりさま」だった私は、友人たちのコミュニティからも遠ざかってしまったのです。
何事にも前向きになれなかった30代の私は、
お店で❝浴びせられる❞(と当時は思っておりました)「おひとりさまですか」の言葉にも、
過剰反応してしまっていました。
30代の私は、
独り、独身でいる私を素直に受け止めることができなかったのです。
お店の人にすら「おひとりさまで寂しく入店してきた人」と思われたくなかったのです。
本格的に孤独な生活が始まりました30代は、
ほとんど外で食事をした記憶がありません。
入店できたとしてもファストフード店に限られてました。
意義ある人生を送るため、意義深いお店に出掛けることに
そんな10年近くも勝手にふさぎ込み❝いじけ❞続けてきた私ですが、
40歳を境に、自分の人生に少しでも意義を持たせてあげて、
少しでも愉しませてあげよう、
そうでもしなければ自分自身が可哀想過ぎる、と思い、
ちょっとづつ自分で動いてみることにしたのです。
外食をするようになったのも、意義深く愉しい生活を送る一環です。
「おひとりさま」の私が好んで行くお店は、
歴史と文化があり、「お店そのものに」意義が感じられるところです。
歴史と文化の香りがするお店、
私は休日に、一人で老舗蕎麦屋に行きます。
私は、江戸時代から続く歴史と文化の香りがする蕎麦屋で、
「分かっている人」と思われて、食事をしたいのです。
「おひとりさまですか」と尋ねられても、
にっこり笑顔で「ええ」と答えても、
「粋」とさえ思って頂けるお店に行きたいのです。
せっかく人生を歩んでいますので、
これまで先人たちが築き上げてこられた歴史と文化を感じながら、
歴史と文化を感じられる価値ある自分でいたいと思うのです。
独りの人生は、
なかなか意義を見出すことは困難です。
人生の意義は、やはり人と関わりながら見出して行くことが近道なのかもしれません。
私は独りでも意義を見出すため、
そして人生を愉しむため、
そこに存在していること自体が価値であるような歴史ある老舗の蕎麦屋に伺い、
歴史と文化を「分かっている」自分を演出しているのです。
外に出掛けてみる。
歴史を感じられる私を演出してみる。
演出であってもお蕎麦は本当に美味しい。
「あ~美味しかった」
「あ~楽しかった」
こんな時間を多く創りたいのです。
老舗蕎麦屋は日本には沢山あります。
そのお店、お店にはそれぞれ守り抜いてこられた歴史があります。
独りでも「その歴史を感じにいく」という目的を持つだけで、休日の意味はほんの少し意義深くなるものと私は思います。
一人アパートでうずくまっているよりも、
ほんの些細な幸せを探しに、
意義深い場所に出掛けてみることで、
私の人生にも意義を付け加えていきたいと思っているのです。
これが私の人生の愉しみ方の一つなのです。